正統派のアクサダイレクト

日本のテレビがやたらと事件や、欧米のことばかり流しているのにくらべて、なんとさつばりしていることだろう。

このほうがまともなのかもしれないな、と思う。 翌日訪ねた「エルミタージュ」は、ただ「すごい」の一語に尽きる。
宮殿のまま残っている部分も、美術館になっているところも、まことに広大かつ豪華絢澗で、フランスのヴェルサイユとルーブル以外は肩を並べることができそうにないからだ。 シャンデリアの輝く大ホールは、映画で見た『戦争と平和』の一場面のようで、今にもナターシャが踊りながら飛び出してくるのではないか、とすら想像した。
美術館のほうは二階の十四、五世紀の西欧画家からスタートし、しだいに十七、八世紀へと時代が移る。 三階は近代画家のコーナーで、おしまいが印象派となっている。
印象派の絵を見るだけでも一週間はかかるといわれているのに、その夜は、キーロフ劇場でのバレエ鑑賞がようやく実現した。 うやく」なのである。
でも、それはまだいいほうだった。 翌晩行ったRの場合は、ガイドが初めから、二カ月前に売り切れています」といっていたので、なかば諦めていたのだ。
ところが、ホテルのプレイガイドには、売りの案内が出ているではないか。 問い詰めたら、「実は外貨(ドル)がないと買えないんです」と言を左右にする。
「なぜ先にそういわなかったんだ。 いいたくはないけど、外貨ならこんなにあるよ」と胸を叩き、値段を聞いて驚いた。

九人分で三十一ドル五十セントだというのだ。 日本だったら、一人分にも当たるまい。
かつてチェコのプラハでオペラの当日券売りを買ったときは一人三十ドルだったので、少し安いなと思ったが、世界に冠たるRが、こんなに安いとは・・・・・・と感嘆する。 その翌日は空路、南国ウクライナのキエフまで飛んだ。
国内線なのに、空港では例によって荷物が出てくるまで一時間待たされ、やっぱり一時間は時間に非ずか、と唇を噛む。 ただ、南国のせいか、これが同じソ連かと思うほど明るく、自由な感じでほっとした。
ジャーナリスト同盟の書記長が歓迎宴で、「今日は大いに飲もう」とウオツカの大瓶を開けたので、「Gに禁止されているんじゃないの」と聞いたら、彼は、「ここはウクライナですよ」と胸を張った。 旧ソ連が解体する六年前のことである。
さて、キエフと郊外の田舎村「ボグスラブ」などで田園情緒を満喫し、再びモスクワへもどった一行に、突然、要人との会見が飛び込んできた。 初めからどうせだめだろうとタカをくくっていたのだが、これまた突然の実現である。
相手は、ソ連共産党機関紙PのA編集長だという。 私の社の支局長に電話したところ、「めったにない機会なので、常駐者もぜひ入れて下さい」と強くいう。
そこですぐガイドに話したが、案の定「むりです」と、にべもない。 「ならば、私の責任でやる」と支局長たちを玄関に待たせておき、編集長に直接頼んでみた。
すると、意外にあっさりオーケーとなった。 各支局長が喜んだのはいうまでもない。

あとはFの墓で知られるノヴォデヴィチ修道院から、高台のM大学、そしてトルストイの邸宅などをまわる。 『S』『A』の初版本、T・E・KやCとの往復書簡、徳富麗花の写真などが目をひいた。
その晩は、自由時間になったので、私はホテルのプレイガイドで見たスタニスラアスキー劇場へ行った。 ところが、当日売りの券は私の数人前で売り切れてしまった。
ふと脇を見ると、券をひらひらさせている婆さんがいる。 一枚一ルーブル四十カペイカなので、もう十カペイカはずんだら、婆さん「有り難う」もいわず、ポケットへねじこんだ。
そうしてオペラを堪能したのはいいが、いざ帰る段になって、はたと困った。 ホテルまでかなりの距離があるのに、タクシーをどこで探せばいいのかわからないのだ。
ともかくホテルのほうへ向かおうと二、三百メートル歩いたところで、後ろから車が来た。 見ると、タクシーだ。
ソ連にも流しのタクシーがいるのか、と幸運に感謝しつつ乗り込んだが、運転手さんはむっつりしたままで、取りつく島もない。 そこで私は、ふと思いついて、覚えたてのロシア民謡『カチューシャ』を口ずさんだ。
途端に運転手さんの態度が一変して、一緒に歌いはじめたのだ。 しかも「そこはこう歌うんだ」とコーチまでしてくれるではないか。
いやあ、感激した。 地獄で仏、以上だ。
ホテルに着いて、料金にチップをはずもうとしたら、彼は逆に「負けておく」といってきかない。 ロシア民謡を歌った日本人は初めてだ、といっているらしいのだ。

結局、押し問答の末、料金を負けてもらった。 これだから、旅はやめられないのだ。
中国へは、一九八六年暮れから八七年正月にかけて観光で訪れたのをはじめ、九三年から九五年までの三年間には「緑化協力」のため四回、さらに「日中親善テニス」で一回、と足しげく通った。 あの頃から現在までの中国社会の変化を見ると、その発展ぶりはほんとに目を見張るばかりで、恐らく世界でも例がないくらいのスピードだったと思われる。
八六〜八七年のときは、まだ北京空港から市内までの高速道路がなく、おんぼろなバスがほこりっぽい田舎道をがたごとと走っていたものだった。 それが、次に行った九三年には高速道路の工事が八分通り進み、その翌年には開通するというテンポだったのだから、驚く。
さらにここ十年間に北京、上海に見られるような近代都市を出現させたのを見ても、この国の底力はすごい。 観光で行ったときは、北京の主なところをまわったあと、夜行列車で洛陽へ、次いで西安へと移動したが、北京駅の汚かったことが最も強く印象に残っている。
薄暗い待合室を通り抜けでホームへ行くのに、浮浪者の群れをまたぐようにしたことも、敗戦直後の上野駅を思い出させた。 列車も古くてトイレなどの設備が悪く、ひと晩中がたんごとんと激しく揺れ、脱線しないものだなと、ひやひやし通しだった。
ただ、明け方通過した黄河大鉄橋の長かったことと、その後延々とつづく原野の広大なのを見て、日本はなんでこんな果てもない国に攻め込んだのか、非道はもちろんだが、愚かにも程があるではないかと、しみじみ感じたことを思い出す。 洛陽へ着いたら、駅舎は工事中でほこりっぽく、街のなかも北京に劣らず汚かった。

女性がまともに使えるトイレはなく、男性ですらホテルに着くまで我慢するほどだったのだから、現在からはちょっと想像もつかないだろう。 そういうもろもろの不満を抱えながらも、洛陽の郊外で目にした「竜門の石窟」には、思わず歓声をあげた。
五世紀末の北貌から七世紀なかばの唐代にかけて、崖一面に彫られた仏像には、千数百年の風雪に耐えてきた重みがある。 とりわけ則天武后をモデルにしたという大仏は、世界中のどの大仏より美人だといっていいだろう。
対岸にある白楽天の記念館には、有名な「琵琶行」(長恨歌)の歌碑があり、しばし漢詩の世界に浸る。 この国最古の仏教寺院といわれる白馬寺では、弥勅菩薩の生まれ変わりという信仰のある布袋像に人気があるようだ。
あの、太鼓腹丸出しのニコニコじいさんのことで、手ごろな土産になる大きさの模造品があちこちの届頭にある。 ここで、私は釣鐘を突いてみることにした。
この名利でもやってみたかったのだ。 大した音色ではなかったが、料金はわずか二苅(当時は十円)なり。

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